相談に乗る話
広い、広いカフェだった。大きなガラス戸から外の日差しが優しく差し込み、道ゆく人たちが見えるが、その喧騒は届かない。店内にはテーブルがたくさんあるが、客はまばらだ。その割には何人もの店員が忙しそうに歩き回っている。カフェのちょうど真ん中あたりの席に私は座っていた。テーブルを挟んで向かいに座っているのは吉沢亮だ。伏し目がちにちびちびとコーヒーを飲んでいる。
「相談って何なの?」
私が聞くと、彼はカップをゆっくりとソーサーに置き、真っ直ぐにこちらを見つめた。
「俺、福士蒼汰くんに負けてはいないでしょうか」
近年では国宝級イケメンとまでもてはやされている彼にそんな悩みがあったのか。私はあっけにとられたが、親身に相談に乗ってあげることにした。
「私はそう思ったことは無いけど。顔だって個人的には吉沢くんの方が整ってると思うけどな」
「いえ、顔のことではなくて……。俺の顔が綺麗なのは知っているので」
ずいぶんな自信だ。こんな台詞を吐いても嫌味にならないのはやはりその美しさ故だろう。
「売れたのも俺より福士くんが先だったじゃないですか」
福士蒼汰と吉沢亮はかつて無名の頃に『仮面ライダーフォーゼ』で共演している。主人公を演じたのが福士蒼汰、そしてそれを支えるサブライダーを演じたのが吉沢亮だった。その後朝ドラ等の出演もあり福士蒼汰は爆発的に売れ、吉沢亮はしばらくあまり有名にならないままだった。
「でも結局は後から追いついたじゃない?タイミングの問題だよ。私はフォーゼの放送中からずっと吉沢くんの方が美形だし売れると思ってたけど」
「顔だけ良くたって俳優としては不十分じゃないですかね。俺には顔しか取り柄がないです」
演技の良し悪しも分からない私は何も言えない。
ガラス戸の外で、見知らぬ女性二人組がこちらに手を振った。
「俺そろそろ行きます」
カップの中身を急いで飲み干すと、彼は勢いよく立ち上がった。
「伝票、ここに置きますね」
私の目の前に伝票を置き、そのまま颯爽と店を出て行った。
「あの、失礼します」
申し訳なさそうにぺこぺことお辞儀をしながら、〇〇くんがやってきた。なぜかすでにマグカップを両手で持っている。
〇〇くんは大学の後輩だ。丸い目に大きな黒い太縁メガネ。小柄で華奢な体つき。中学生のようにツヤツヤで丸い髪型。常に丁寧な言葉使い。リスのような挙動でいつも可愛らしい。
「代わりに来ました」
と言って、さっきまで吉沢亮の座っていた席に腰を下ろした。
テーブルの上のマグカップを両手で持って包みこみ、〇〇くんは前のめりになった。
「僕、吉沢亮さんになりたいんです」
いたって真剣な表情だ。キラキラした目で見つめられ、私は言葉に詰まってしまった。だがここは真実をきちんと伝えねばなるまい。
「それは……どうやったって無理だと思うな……」
「いやあ、やっぱり厳しいですかねえ」
意外にも全く絶望していなさそうな顔で、〇〇くんは照れたように肩をすくめ頭を傾げた。
「うん、そればっかりはどうしようもないよ」
「そうですねえ、いやあ……。無理ですかねえ」
そんなやりとりを、私たちはしばらくポツポツと続けていた。
……という夢を見ました。先週あたりに見た夢です。吉沢亮氏のファンや福士蒼汰氏のファンから怒られそうだと思い書かなかったのですが、奇妙で面白い夢だったのでやはり書くことにしました。
〇〇くんはどうして吉沢亮になりたいと思ったのか、夢の中とは言えとても不思議です。
今日の話は、これでお終い。
医学部に入る話
大きなリュックを背負って、私は空港の外に出た。小さめのバスターミナルになっていて、人の列がいくつかできている。大きな白い長距離バスに近づくと、窓からこちらを見ている恋人の姿があった。
プシューと音を立ててドアが閉まり、バスはゆっくりと発車した。私が両手を大きくふると、彼も小さく手をふり返した。バスが見えなくなったところで、私は自分が乗りこむべきバスの乗り場へと歩きはじめた。
『東北大学医学部』と書かれたマイクロバスに乗りこむと、中はほぼ満席だった。よく見ると乗客のほとんどが眼鏡をかけた男性だ。運良く空席を見つけ座ると、隣の席に座っている人も眼鏡をかけた男性だ。このバスには東北大学医学部に入学予定の新入生しかいない。これからはこういう環境で大学生活を送るのだな、などと考えているうちに、ムッとする熱気を車内に閉じ込めたままバスは走り出した。
発車からしばらくすると、隣の男性が話しかけてくる。紺と白のボーダーシャツを着た小太りの体をしており、なぜかやたらと汗をかいている。目線をしきりに泳がせながら何か言っているのだが、声が小さいのと早口なせいでほとんど何も聞き取れない。ヘラヘラと笑いながら適当に相槌をうっていたが、
「本当に暑いので心配ですね、ええ」
という言葉だけが最後に聞き取れた。
「仙台は涼しいと思いますよ」
と私が言うと、男性はうなづいたきり黙り込んでしまった。やがて男性が窓にもたれかかって眠りはじめたので、私はスマートフォンを取り出した。
仙台は涼しくはなかった。じっとりと湿度の高い大教室の中で、他の新入生たちが一人ずつ起立し自己紹介するのを聞いていた。しばらくするとどうやら自己紹介は終わったようで、上級生と思われる若者たちが何やら紙を配りはじめた。手元に回ってきた配布物を見ると、いらすとやの絵を多用した雑なチラシだった。新入生歓迎合宿なるものについて書いてあり、出席か欠席に丸をつけて提出しなければいけないようだった。
紙を配っていた若者の一人が壇上に上がり、何やら説明している。話を聞き流しながら私は何気なく自分の歯を舌で軽く押した。ポロっ、と歯の取れる感覚がする。しまった、こんな気はしていたんだ、と私は思った。そうこうしている間にも歯はどんどん取れる。とうとう口の中にはおさまらなくなってしまった。仕方がないので私はこっそりと両手に歯を吐き出し、ズボンのポケットにそっとしまった。
……という夢を見ました。文字に起こすと医学部感は全く無いですが、夢の中での私は確かに東北大学医学部に入学する気満々だったのです。
歯が取れる夢はここ数年たまに見るので、そろそろデンタルクリニックに行った方が良いのかもしれません。虫歯になってたりして。
今日の話は、これでお終い。
変身する話
広い座敷で、宴会が行われていた。
「瀬戸くん、わかなちゃんと結婚したんだってね」
隣に座っていた女性が、私に話しかけた。ほんのり顔が赤らんで、どうやら少し酔っているようだ。そうなんですか?と私は驚いて、そして瀬戸康史の方に顔を向けた。彼は少し離れたところの卓にいて、スーツを着た中年男性達とビール片手に談笑している。
「私もつい最近まで知らなかったのよ。でも知ってから過去の映像を見返すとさ、明らかにわかなちゃんと仲良さそうなの。まあお似合いの二人よね」
そう言って女性はおもむろにスマートフォンを取り出し、いくつかの動画を再生し始めた。わかなちゃんと言うのは葵わかなの事である、と私はその動画を見てようやく気づいた。女性の言うように、瀬戸康史が葵わかなに向ける視線は他の人へ向けるそれとは明らかに違った。
俳優の瀬戸康史と、女優の葵わかな。確かにお似合いだ。そしてその事を認めたがらない自分がいることに気づいた。
私は、瀬戸さんに恋をしていた。
「これをお前にやる。三日でマスターしろ」
と、師匠は言った。
奇妙な空間の中に師匠は座っていた。二畳ほどのスペースに、大きな背もたれと肘掛のついた黒い回転椅子のみがある。壁は全て本で埋め尽くされた本棚で、天井はとても高くてはっきりとは見えない。師匠の風貌は、ハリーポッターの映画に登場するスネイプ先生にそっくりである。
師匠が私に手渡したのは、小さめのバイオリンだった。
「分からない事は俺に聞くな。瀬戸に教えてもらえ」
このバイオリンは元々師匠が持っていたものだ、と私は思った。そのバイオリンを自分に任せてもらえることが、たまらなく嬉しかった。
「私、全力で頑張ります」
師匠は椅子を回転させて背を向けた。
「人にわざわざ頑張るなんて宣言する奴は屑だ」
新しくて小綺麗な図書館のような場所で、私はバイオリンを片手に小走りしていた。
「瀬戸さん!」
私が呼ぶと、瀬戸さんはにっこりと微笑みながら振り返った。グレーのぱりっとしたベストに白いシャツ、紺のネクタイに銀のタイピン。ズボンのポケットに両手を入れて振り返る仕草は信じられないほどにドラマティックだ。
「師匠から受け取ったんです、これ。教えてほしくて……」
「貸してごらん」
瀬戸さんがバイオリンに顎を乗せ、綺麗にビブラートをかけて音を出す。こんな風にしてごらん、とバイオリンを渡され、見よう見まねで私もバイオリンを弾くが、黒板を引っ掻いたような音しか出ない。瀬戸さんは私を励ますように肩をポンポンと叩き、そして歩き去った。
瀬戸さんと私は肩を並べ街を歩いていた。ヨーロッパのどこかのような、石造りの建物と石畳が綺麗な街並みだ。
「不安なんです、私。上手くできるかどうか」
「師匠は君に期待しているんだと思うな」
瀬戸さんが諭すように優しく言う。
「やっと引き継げる人が現れて、師匠も嬉しいんだよ」
戦う時がきたのだ、と私は思った。街の全てが氷漬けになり、時を止められたかのように街の人々も氷に閉じ込められている。時計塔の上から、得体の知れない何かが紫色の巨大な触手を何本も伸ばしている。
私は深呼吸をし、震える手でバイオリンを弾いた。すると、空から無数の光の点が集まり、私の目の前に降り注いだ。一つ一つの光の強さがやがて収まってくると、それらが人の形をしていることが分かった。
私が彼らを目にするのは初めてだった。だが、私は彼らを知っていた。彼らは私が生まれるよりもずっと昔に、人々を救う為に戦ったヒーロー達だ。
彼らはフルフェイスのヘルメットのようなものをかぶり、人間と動物を合体させたようなフォルムの戦闘服を身につけている。そのうちの一人、ホワイトタイガーのようなデザインの戦闘服の男が、私の方に歩み寄ってきた。
「よくやったな」
その声は、間違いなく師匠の声だった。師匠の体が強く発光したかと思うと、やがて光と師匠は分離し、光は私の手元に飛んできた。光をぎゅっと握りしめ、私はその拳を空につきあげた。
「変身!!!!!」
……という夢を見ました。現実世界で瀬戸康史を特に好きと思ったことは無いですが、NHKで放送されている番組『グレーテルのかまど』に出演している瀬戸康史は好きです。美しいお菓子とそれにまつわる素敵なエピソードを見ることのできる、とても良い番組です。
瀬戸康史とバイオリンというモチーフは、おそらく『仮面ライダーキバ』からきたものでしょうね。私はまだ視聴したことがないので詳しくは知らないのですが、瀬戸康史の演じる主人公はバイオリン職人をしているようです。
今日の話は、これでお終い。
空飛ぶ船の話
東京ディズニーシーに新しいアトラクションができていた。二人乗りの小さなヨットのような形で、二匹の空飛ぶ狼がそれを引いている。船体には小瓶がぶら下げられていて、その中に入っているティンカーベルが妖精の粉をふりかけることで船を浮かび上がらせてくれる。この船を使ってパーク上空を二時間自由に飛び回ることができる、というアトラクションだった。
まだ開園前で、パーク内はほぼ無人だ。私と恋人は開園前の点検で新アトラクションに試乗するために招かれたのだった。船の前方に彼が、後方に私が乗り込む。小瓶の中にいる本物のティンカーベルにさほど驚くこともなく、私は魔法の粉をまいて船を出航させた。前方の彼が馬車の御者のように狼を操る。目下に広がるディズニーシーの海は、まるで太平洋のように果てしなく続いている。
妹と私は新アトラクションの行列に並んでいた。今度は試乗ではなく、客としてアトラクションに乗りにきたのだった。ほどなくして私達の順番が回ってきた。今度は私が前方に乗り込み、狼の手綱を握る。
「ランドとシー、両方を空から見てみようか」
振り返って言うと、妹は嬉しそうにうなづいた。
そこは明らかに東京ディズニーシーではなかった。東京ディズニーランドでもない。もはや日本ですらない。ここはおそらく中東のどこかだ、と私は直感的に思った。進路を誤り国境を越えてしまった私達は、不法侵入者として軍に拘束されていた。
どこだか分からないビルの中、蛍光灯の冷たい光に照らされながら、私達は大勢の怖い顔をした大人に囲まれていた。何語か分からない言葉を使ってボソボソと会話している。私は英語でのコミュニケーションを試みるが、私の声など聞こえてもいないようだ。
一人の女性が颯爽と部屋に入ってきた。綺麗な金髪に真っ赤な口紅、黒いピタピタした服。顔は少しテイラースウィフトに似ている。彼女が何か一言発し、怖い顔の大人たちは全員ぞろぞろと退室した。
私達は意図して不法侵入したわけではありません、と英語で彼女に伝える。最後まで言い終わらないうちに、知っているわ、と遮られた。ついてきなさい、と彼女は言い、そして歩きはじめた。
エレベーターに乗っていた。壁も床も天井も、全てがガラス張りになっている。妹は私と手を繋いで不安そうにしている。金髪の女性は無言でどこか遠くを見ている。ずいぶん長いことこうしているように思えた。
たぶん日本に帰してもらえるのだろう、日本のどこに連れて行かれるかは分からないが、と私は考えていた。やがてエレベーターのはるか下に、東京ディズニーランドのシンデレラ城が見えてきた。どうやら私達は舞浜に送り届けられるらしい。
ふと気がつくと、私の左手にはタイマーが握られていた。アトラクションに乗る時に手渡されたものだ、と私はすぐに思い出した。タイマーの示す時間はもうすぐで二時間になろうとしていた。何日も経ったかのように感じていたが、まだ二時間しか経っていなかったのか。中東と日本はずいぶんと近いのだな、と私はぼんやり考えていた。
……という夢を見ていました。ちなみに、ディズニーに新アトラクションができたのは現実の話です。もちろん空飛ぶ狼やティンカーベルはいないと思いますが、どんなアトラクションなのか楽しみでワクワクしています。
真夜中の少年の話
真夜中の校庭の隅で、何かから逃げていた。住んでいるアパートで何かに襲われて、同居人の少年に手を引かれつつ、裸足で飛び出してきたのだった。少年は昭和の小学生のような見た目をしていて、ドラえもんに登場するのび太に似ている。私は少年よりも年下であるらしく、少年を見上げる体勢で走っている。
うさぎ小屋の近くで私達は立ち止まった。深い暗闇の中で、真っ白なうさぎが蠢く様がぼうっと浮かぶ。
「あのね、前にもこんな事があったの。夢の中での事だったけど」
私が少年に話しかけると、少年は穏やかな笑みをこちらに向けた。
「お姉ちゃんと一緒に、こうして逃げている夢。でも、お姉ちゃんも同じ夢を見ていたの。だから夢じゃなかったのかもしれない」
「そんな怖い事を言うなよ」
少年は硬い笑顔で目をそらした。
「それで、これからどうすれば良いんだい」
そう言って少年は少ししゃがみ、私と目線の高さを合わせる。周りには街頭も無く、真っ暗な林が広がっている。前方の地面には点々と赤い光が道のように続いている。よく見るとそれは小さな火であったが、地面の上の何かが燃えているようではなかった。誕生日ケーキにささっている蝋燭の、火だけをそこに移したかのようだった。
「この道をずっと行くと、真っ黒な看板のバス停があるはずなの。昔見た夢の中では」
不安な気持ちでいっぱいになり、少年の手をぎゅっと握る。
「だけど、本当にあるかは分からないの」
少年はにっこりと私に笑いかけた。
「おいおい、そんな怖い事ばかり言うなって。大丈夫だよ、バス停はきっとあるよ」
私はゆっくりとうなずいた。
「それからね、火は全部消さなきゃいけないの」
火を全部消すこと、それが何故かとても難しいことかのように思え、不安が加速する。
背後で何か物音がした。少年に強く腕を引かれるようにして、私たちは走り出した。走りながら私と少年とで足元の火を消していく。少年は靴で火を踏み消し、私は息をかけて吹き消す。途中、少年があまりに速く走るので私は火を一つだけ消し損ねてしまった。とても後ろめたく感じた私は、少年にその事を言い出せないまま走り続けた。
少年と私は、手を繋いで真夜中の道路を歩いていた。もうずいぶんと長い時間、二人は無言だった。広い国道のような道で、歩道は無く、車が全く通らないので車道を歩く。道路の向こう側にはぽつぽつと無人の店が並びネオンが光っているが、道を進むにつれだんだんと店の数は減ってきているようだった。しばらく歩くと、無人のガソリンスタンドが現れた。大きな看板に取り付けられた切れかけのネオンはチカチカと光っているが、他の明かりはすべて消えている。
「こんなところに、ガソリンスタンドなんてあったかな」
不安になった私は少年に話しかけた。
「前からあったよ」
少年は前方に顔を向けたまま言った。
またしばらく歩くと、無人のダイナーが現れた。看板のネオンはほとんど切れかかっており、かろうじて弱々しい光が点滅しているが、店内の明かりはやはり全て消えている。
「こんなところにこんなお店、あったかな。絶対に無かったよ」
少年が立ち止まってくれることを期待して、私は再び少年に話しかけた。
「あったよ」
少年は足を止めることなく、無表情で前を向いたまま短く答えた。
少年は突然立ち止まった。こちらに向き直り、私の両肩に手を置くと優しく微笑んだ。
「ちょっと向こうのほうの様子を見てくるね。ここで待っててね」
イヤ、置いて行かないで、と私は幼児のようにぐずって少年の腰に抱きついた。
世界は真っ暗になっていた。まるで、完全な暗闇の中に私と少年しか存在しないかのようだった。何も無い闇の中で、私と少年は向かい合って立っていた。少年は私よりもずいぶんと背が高いように見えた。そして直立不動の姿勢で、私を冷たく見下ろしていた。
「もう戻れないよ」
口すら動かさずに、少年が声を発した。
「ごめんね。もう二度と戻れないんだよ」
なぜ少年と一緒に逃げていたのか、私は考えていた。はじめに少年がなぜアパートにいたのか、私は思い出せなかった。この少年は誰なのか、なぜ私がこんなにも少年を信頼していたのか、少年と手を繋ぐとなぜとても安心できたのか、今となっては分からなかった。
「どうして戻れないの?」
涙が溢れないように必死で目を見開きながら、私は少年を見つめ返した。長い長い沈黙の後、少年は再び声を発した。
「火を消さないのがいけないんだ」
……という夢を見ました。夢の中の私はずいぶん幼かったようで、目覚めた瞬間に急に成長したような、奇妙な感覚に陥りました。
今日の話は、これでお終い。
ゾウと百貨店の話
百貨店の中には、私以外に誰もいない。古く、広く、豪奢で、ロンドンのハロッズのように重厚な造り。何者かに追われながら、誰かを見つけるために、どこかを目指して走っていた。百貨店の中になぜか図書館がある。ちょうどそこに差し掛かったところで、追っ手の影が目に入った。私は無人の図書館を走り抜け、お手洗いに続くはずの角を曲がった。
広いホールに立っていた。百貨店の入り口近くの場所で、壁際には大きな金色の像が置いてある。無性別な人間の立像で、ちょうどオスカー像のような見た目をしている。私の隣には耳の大きなアフリカゾウがいて、その背中には小柄な少年が乗っている。
「もうすぐ扉が開くよ」
少年はそう言って、私をゾウの背中に引っ張り上げた。少年の言葉どおり、百貨店の重く大きなドアがゆっくりと開き始めた。ドアの先には手すりの無い細い鉄橋があるが途中で途切れている。鉄橋のはるか下には戦場が広がり、駆け回るローマ兵たちが見える。
少年と私を乗せたゾウは扉をくぐると、鉄橋で助走をつけ、そして耳を広げて飛行する。なぜこんな事をしているのだろう、と私は考えていた。そして、私はこの不思議な力を持つゾウを使って歴史を変える旅の途中であることを、やがて思い出した。
ゾウは私と少年を乗せ、閉まりかけの扉をすり抜けて百貨店に入った。私も少年も息を切らしていた。
「次が最後なんだよ」
と、少年はゾウから降りて言った。
「追っ手のことは僕に任せて。君にはまだ大事な使命が残っているんだから」
少年がゾウの尻を軽く叩くと、ゾウは再び扉に向かって勢いよく走り出した。
私に残っている使命って何なの?そう聞こうとして振り返ると、ホールにはすでに誰もいない。金色の像だけがこちらを見つめ返している。ゾウが扉をくぐった途端に、百貨店の景色は虹色の靄に包まれて消えた。
百貨店の外は、第二次世界大戦中のロンドンの景色だった。戦闘機が飛び回り、地上では戦車が列をなして大通りを進んでいる。戦車からたくさんの兵士が出てきて、一斉にゾウを狙撃し始めた。ゾウを殺してはならない、と私は咄嗟に思った。ゾウを殺してしまっては歴史を変えることができない、この大戦を早急に終わらせて犠牲者を減らすことができない、例え私は死んでもこのゾウだけは殺すわけにはいかない。せめてもの盾になろうと、私は全身でゾウの頭を覆った。
廃墟がつくる大きな日陰に、おびただしい数の死体が並べられていた。全て土や血にまみれた兵士たちの死体で、中には手足が欠損していたり火傷で爛れているものもあった。遠くから聞こえる蝉の鳴き声以外には何の音もしない。戦争は終わったのだ、と私は気づいた。
几帳面に整列された死体の間を、ゆっくりと慎重に歩く。向かい側から一人の少年が歩いてきた。伸びきったボロボロのタンクトップ、丈がとても短いペラペラのショートパンツ、ボサボサの髪、裸足。日焼けと土汚れで真っ黒な肌に、白目と歯の白さだけがやけに際立つ。手には竹槍のような形状をした白くて細長い棒を持っている。目が合った瞬間に、私は少年の殺意を感じた。殺される。今すぐに逃げなければ。
気がつくといつのまにか、私自身がゾウになっていた。百貨店の中に逃げ込んだが、裸足の少年も百貨店の扉が閉まる前に滑り込んできてしまったのだった。少年をまこうと百貨店内を必死に逃げ回り、やがてスポーツ用品売り場にたどり着いた。
百貨店に入っている一店舗にしては、やけに広いスポーツ用品売り場だ。エスカレーター付近が吹き抜けになっていて、その吹き抜けの一番下から一番上まで、おそらく七、八フロアほどが全てスポーツ用品売り場になっている。少し離れたところにある商品棚の影から、裸足の少年が顔を出した。私は耳を広げ、ゆっくりと吹き抜けを上昇して逃げ始めた。
そこに、止まっているエスカレーターを〇〇くんが駆け上がってきた。〇〇くんは大学の同期で、大柄な体つきをしている。普段はゆっくりとした動きしかしない彼だが、素早い動きでエスカレーターを上っていく。手には薙刀のような武器を持っており、裸足の少年から私を守ろうとしている。
裸足の少年の走る速さはかなり遅い。だが、まるで瞬間移動しているかのように、あっという間に私と同じフロアまで上がってきてしまう。〇〇くんはなかなか少年に追いつけない。私は上昇速度を上げて逃げきろうとするが、スピードは全く上がらない。そうこうしているうちに、吹き抜けの一番上まで来てしまった。
私は商品棚の影に隠れることにした。商品棚はとても背が高く、ゾウになった私が十分に隠れられるほどの高さだ。テニスラケットが陳列された棚の間で、そっと息をひそめる。
何の音もしない。どうやら逃げ切れたようだ。安堵して瞬きすると、少年が目の前にいる。白い歯を見せて少年が笑う。槍を構える。私の胸をめがけて躊躇いなく槍を刺す。そして私は、
……という夢を見ました。三、四ヶ月ほど前に見た夢だったと思いますが、あまりに強烈だったので反芻しているうちにこびりついて離れなくなってしまいました。
ところで、この時は私が殺されそうになるところで夢から覚めたのですが、もしも夢の中で死んでしまったら現実の私はどうなってしまうのでしょうね。
今日の話は、これでお終い。
中村優一さんに会いたい話
休日の昼下がり、いつもよりものんびりと身支度をし、着慣れた高校の制服に袖を通す。リビングでテレビを見ていた母がふと思い出したようにこちらに顔を向けた。
「ねえ、今日の夕方、〇〇高校で中村優一が講演会だって」
中村優一は俳優だ。私の大好きなテレビ番組『仮面ライダー電王』の中で、私の最も好きな登場人物、桜井侑斗を演じていた。そして〇〇高校とは私の通う高校であり、今まさに私が向かおうとしている場所だ。好きな俳優さんが、私の高校に来るなんて!胸を踊らせ、私は玄関を飛び出した。
私は校舎の入り口に立っていた。あれ、何だったっけ……そう、中村優一さんだ。どこにいるのか、先生に聞いてみなくては。
職員室の中を覗くと、中年の男性教師が一人ぽつんと立っていた。見知らぬ顔だったが、〇〇高校の先生であるには違いなかった。講演会はついさっき終わった、中村優一さんは校長室に控えている、と彼は手短に告げた。
廊下を歩いていると、△△ちゃんが向こうから小走りでやってきた。△△ちゃんは私の大学同期だが、そこでの彼女は〇〇高校の同級生だった。
「講演会、もう終わったんだって。今は校長室にいらっしゃるって」
と、私は彼女に言った。△△ちゃんもなぜか中村優一さんに会いたがっており、そして私もなぜかその事を知っていた。
「あ、ほんまに?じゃあ早よ行かないと帰っちゃうかもしれへんよね。うち、今から校長室行くわ」
そう言って△△ちゃんは小走りで去っていった。私は早歩きで同じ方向に向かいながら、△△ちゃんと少しタイミングをずらせば中村優一さんと一対一で話せるかもしれないなどとぼんやり考えていた。
ひどく汗をかいていた。薄暗い、広い教室の端で私は床に座り込んでいた。教室の机は全て壁際に寄せられて、その上には椅子が重ねられていた。同じ年頃の女の子たちが二十人ほど集まっており、その全員が体操服を着て髪をポニーテールにまとめ汗をかいていた。教室の真ん中に明かりが差し込んでいて、スポットライトのようにそこだけを照らしていた。照らし出されているのは高橋みなみで、彼女も他の子と同じく体操服にポニーテールという格好をしている。
ああ、そうか。ダンスの練習をしているんだった。高橋みなみがあまりにも熱心なので練習が長引いているのだった。中村優一さんはまだ帰らずに学校にいるだろうか、早くしないと会えないかもしれない、でも練習を抜け出すのは高橋みなみに申し訳ない、と葛藤しているうちに音楽が流れ始めた。まだしばらく練習は終わりそうにないようだ。私は音を立てないようにそっと教室を抜け出した。
気がつけば私は人混みの中にいた。周りを見渡すと、どうやらそこは広い広い遊園地のようだった。どうしてこんなところに来てしまったのか。帰り道を探すが、地図や看板が全て中国語で書かれており解読できない。そうか、中国の遊園地に迷い込んでしまったのか。道行く人に英語で話しかけてみるが、悉く中国語で返され意思疎通ができない。しばらくして、私は走り出した。
大きなレストランや食堂をいくつも通り抜けた。遊園地なのに随分と食に力を入れているな、と不思議に思ったが、ここは中国なのだから当たり前なのだ、何と言っても中華料理で有名な中国なのだから、と私は納得した。
やがて私は長い列の最後尾に着いた。列の先にはチケットカウンターのようなものがあり、そこを通過すると遊園地の外に出られるようだった。列はとても長く、そして日はすでに沈みかけていた。ところで、この遊園地から出たとしてそこからどうやって帰れば良いのだろう。言葉も通じない見知らぬ土地で、私はどうすれば良いのだろう。その事に気づいた私は、家に帰る心配よりも、中村優一さんがいなくなる前に学校には到底たどり着けない事に絶望した。
……という夢を見ました。目が覚めたとき、中村優一さんに会えなかった残念さでいっぱいでした。
今日の話は、これでお終い。